シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

SF
[ネタバレ注意!]
95年のTV版放送から四半世紀以上を経て「新世紀エヴァンゲリオン」がついに完結した。しかも驚くべきことに、これ以上ないという程の超・大団円で。

この驚愕の事実を前に、とりあえず何かを語りたい・語らねばという衝動が沸き起こった結果として久々に文章をしたためた次第なのだけれど、正直エヴァンゲリオンという作品に関しては余りにも思い入れがあり過ぎて客観的な作品論などは一切できないわけで、結局自分にとってエヴァを語ることは「私とエヴァ」を語ることに等しいのだなと改めて痛感されられる顛末となった。

実はエヴァンゲリオンが完結したのは今回が初めてではない。97年に公開された映画「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」において、エヴァは一度実質的な終わりを迎えている。

旧劇場版「まごころを、君に」は間違いなく、自分が40数年生きてきた中で最も衝撃を受けた作品だった。衝撃、というよりは「取り憑かれていた」と言っても過言ではないだろう。映画公開中は、わずかな上映期間中に様々な劇場へ通算10回以上足を運び、視聴する度にアウアウ滂沱の涙を流すという状況で、当時まだ21歳と相当にナイーヴかつセンシティブなお年頃であった事実を差し引いても「相当に頭のおかしい人」となっていたのは否めない。

当時一緒になって「エヴァ語り」をしていた友人達と、何とはなしに「10年後、20年後に改めてこの作品を見たらその時の自分は一体どう感じるのだろうね?」などと話していたのだが、図らずもそこから10年後の2007年に新劇場版が公開されることとなり、その際の感想を文章にまとめることとなった。

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に
久々に見返してみてもやはり劇場版「まごころを、君に」の暴走っぷりは異常だった。 「Air」...

今読むと文章力が未熟で赤面モノではあるものの、この当時に抱いていた様々な想いは伝えられているのではないかと感じている。もっとも、この文章を書いてからさらに14年後、改めてエヴァンゲリオンという作品に対峙し、その終わりを見届けることになろうとは夢にも思わなかったのだけれど。

旧劇場版「まごころを、君に」の何がそこまで自分に響いたのか。上記の記事にも書いたが、それは今作の圧倒的な「歪さ」と「醜さ」そして信じ難いほどの「美しさ」と「悲しさ」に対して激しく同調したからに他ならない。

物語が解体され、作品の軸が作家の内面吐露へと移行していくにつれて次第に剥ぎ取られていくキャラ造形や設定。一般的なエンタメ作品のように物語として作品内部で完結することを放棄し、観ているこちら側の現実を侵食してくる「作家本人」の自意識。生きるのは辛い。人間が怖い。寂しい。認められたい。許して欲しい。受け入れて欲しい。傷つけないで欲しい。傷つくことが怖い。愛して欲しい。優しくして欲しい。必要として欲しい。死にたい。いなくなりたい。全部壊れてしまえ。登場人物の口を借りて吐き出され続ける作者の感情の奔流に対し「キモチ悪っ!」とか思いつつも、とどのつまりそれらは自分自身の内側にも(いくら目を背けつつも)確実に存在する想いであり、そういった自らのタナトス衝動が完全にシンクロしてしまった結果が、件の「終局」のシーン、すなわち自らの「最も理想的な終局の形」が鳥肌が立つ程どこまでも美しく描かれているシーンに対する異常なまでの感動・執着だったのだと思う。死ぬほど美しい「世界の終わり」。ボクの考える理想の「死の形」。

あのシーンをあそこまで美しく描けたのは、あれこそが当時の庵野自身の「願望」であり、この作品を取る上で最も描きたいと願っていた「理想」だったからではないだろうか。そしてそれは同時に視聴者たる自分の中のタナトス衝動の具現化でもあった。

さらには、ラストでその「心地よい逃避願望」を否定し、右も左もまったく見えない暗闇の中、微かな「希望」の灯りを頼りに新たな世界へと歩みだす選択をした主人公に投げかけられる最初(で最後)のセリフが、吐き捨てるように呟かれる「気持ち悪い」だったりするあたりのドライで容赦のない現実認識と、それでも歩みを進めなければならないという深い絶望感に塗れた、なかば強制的な前向きさ。

旧劇場版は庵野秀明という個人の感じた絶望と祈りの、いわば所信表明であった。商業映画としても実験映画としても余りに歪で、受け取る人間を激しく選ぶ奇型のような表現ではあったものの、逆にむしろそうであったからこその激しい輝きを放っていたのも確かで、当時の自分には1つの映画作品という枠を逸脱した異常なインパクトと共感を及ぼしていたように思う。

であるが故に、2007年からスタートした新劇場版(ヱヴァンゲリヲン)には実のところ全く乗り切れなかった。健康的で前向きな登場人物達と、TVシリーズをリテイクするかのように反復される物語。小綺麗にまとめられ、ウェルメイド的な「面白い・クォリティの高いアニメ作品」として消費されるだけのエヴァを前に、正直自分は一体全体何を見せられているのかと自問し続け、最終的にこれはTV版ラスト~旧劇場版に納得がいかない「物語としての着地」を望んだファンを救済するための回収装置であり10年前の確信犯的暴走の果てに裏切る結果となってしまった人たちに対する商業映画作家としての「けじめ」或いは「贖罪」であったと結論づけて、第二作の「破」を見る頃には、もはや殆どの興味を失っていた。

それからさらに14年。
ここにきて今回の完結編である。

新劇場版に対して今ひとつ気持ちが萎えてしまってエヴァというコンテンツに関する関心を著しく失っていた自分が再び劇場に行く気になったのは、今回公開された「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」というタイトルの「:||」(演奏記号の反復終了記号)の部分が妙に気になったからでもあった。これまでの新作が全て「ヱヴァンゲリヲン」表記であったのに対して、今回は「エヴァンゲリオン」表記なのも引っかかる。製作者は一体今回の完結編で何をしようとしているのか。

答えは明白、本作は旧劇場版の「直接的な続編」であり、再構築された「まごころを、君に」でもあるということだ。「まごころ〜」は全能の力を得た主人公がメタ的な視点(制作者や視聴者と同じ視点=神の視点)を得て、そこから世界を再構築することで完結したが、「シン・エヴァ」とはその変奏曲、リテイクであると言えるのではないだろうか。
本作では、過去のエヴァンゲリオンはもちろん、「不思議の海のナディア」や「トップをねらえ!」さらには「帰ってきたウルトラマン」など、かつて庵野監督が関わった作品の要素が執拗に繰り返される。このセルフパロディの数々は単なるお遊びではなく、今作が庵野秀明という人にとっての「総決算」であることを示していると同時に、「神(=製作者)」は世界を再編し、違った形で提示し直せることを示唆しているように感じる。

この「わざわざ旧劇場版を再構築・リスタート」という図式の中で神(=製作者)は何を表現しようとしたのか。もちろん前回描き切れなかった(対話劇として抽象的表現になっていた)部分をアニメーションとしてきちんと描き直すという動機もあったかもしれない。それと、前作ラスト間際の観念的過ぎる展開を今一度「物語」に回収することで、映画に置いてきぼりにされた人々を改めて招き入れることも考慮していただろう。

しかしながら、この「シン・エヴァ」制作の最大の動機は、旧作において具体的に語りえなかった「成長」を描き切ることにあったと感じられる。子供から大人への成長。喪失を受け入れ、悲しみを昇華すること。頑なな自意識の外側にある優しさを受け入れること。かつては手探り状態できちんと描けなかった成長を、登場人物達の救済を通して改めて丁寧にしっかりと描き切ることこそが、本作の根幹を成す大テーマだったのではないだろうか。

前作「Q」において主人公・碇シンジは14年間意識不明だった状態から突如として「現実」に放り込まれる。周りが着実に歳を重ね、経験を積んで健康的に人間的な深みを増していっているのに対し、身も心も中学生(厨二)のままのシンジが感じる齟齬・違和感は、とどのつまり自分を含めた「オトナになりきれていない大人」が世間との間に感じている軋轢に他ならない。

見知っていた人達、同じだと思っていた人達がいつの間にか自分を通り越して「大人」になっており、自らの幼稚さや至らなさに対して指摘したり説教したり糾弾したりしてくるという状況は、己のエゴに閉じこもり精神的に世間と隔絶して生きてきたタイプの人間には頻繁に起こりうるが、同じだと思って安心していた分衝撃も大きく、裏切られたような気持ちから軋轢はさらに増大していく。

そのようなシチュエーションに対して過剰に反発し、さらに頑なさを増して殻に閉じこもった挙句に「自分の都合の良い形に世界を創り変える事」を夢想したりといった「純化したエゴの暴走」を描きつつも、「他者が存在せずどこまでも自分しかいない世界にあっては、自分もいないのと一緒」であり「ゆえに辛くとも外に出て暗闇の中を歩き続けなければならない」と悲壮感漂う決意表明をしたのが旧劇場版であったが、そこから25年を経た「シン・エヴァ」において、庵野秀明は「子供である(オトナになりきれていない)という自覚を持ち、背伸びせず、自分のペースで焦らず成長すればいい」という極めてシンプルな結論を提示する。

「自分に優しくない世界なんか滅べ!」「みんな死んじゃえ!」と叫ぶ前に、周囲を見回して、実際に触れてみること。自己の外側にも世界があることを知ること。自分の精神の外側にも他人それぞれの精神活動があることを理解すること。自分の外側にあるリアリティを肌感覚で経験することで認識は広がり、心を閉ざさず、よくよく目を凝らして見てみれば世界は意外と優しさに満ちていることが理解できてくる。

旧劇場版の際の庵野秀明の思考とは決定的に異なっている点が、この世界認識の変化であろう。敵意と憎悪と悲しみに満ちている暗闇の中で、今はまったく見えない微かな「希望」をよすがに歩みを進めていかなければならない、という切迫感・悲壮感に満ちた世界の捉え方と比較して、シン・エヴァにおける庵野秀明の世界認識は非常に柔らかく健全で、なおかつ自信に満ちている。世界は(思っていたよりもだいぶ)優しい。そして(思っていたよりもだいぶ)喜びも多い。他者は理解不能な化け物でもなければ、戦わなければならない敵でもない。言語を用いた他者との相互理解の難しさに絶望することがあるにせよ、それでも対話を続けることで共通認識を得ることは可能であり、そもそも幸福なコミュニケーションに「真の相互理解」はあまり必要ない。

閉塞感と死のイメージに彩られた旧劇場版と比較して、今回の完結編は全くもって明るく、前向きで、健やかな印象である。「自己と他者」「君と僕」「彼と彼女」という簡略・抽象化された自閉的構造、いわゆるセカイ系的な視点は、 自己とそれを取り巻く世界との双方向な関わり合いという視点へと脱却し、メタ的な描写はあるものの作品世界を崩壊させることはなく、あくまでも物語というフレームの中で語られていく。

25年の歳月はリアルの世界にあってもさまざまな経験をもたらした。エヴァが生まれた95年当時30代だった庵野秀明は還暦を迎えたし、私自身も40代となり、家庭を持ち子を成した。

劇中で碇シンジが他者や社会との関わりを通して人間性を回復していったように、自分もまた数十年かけて「社会人」としての自己を組み立ててきたわけで、その間に起こった様々な出来事 – 個人的なレベルの話からミレニアムやテロと戦争、震災にパンデミックなど大きな話まで – は、外側の世界と関わらずに生きていくことの不可能さ、および経験と日常の反復で無知や悲しみを乗り越えていくことを教えてくれたように感じている。

もちろん世界は自分にとって今なお恐怖に満ちた場所であり、自分と他人との間の壁も相変わらず分厚くそそり立っている。生きることが辛苦の連続であるという認識も変わらない。タナトス的な衝動は、40代のおじさんの下に現在もなお確実に「コア」として息づいており「滅び」に対して如何ともし難い美しさを感じる感覚も健在であるが、反面、この世界で生きていく楽しみ喜びも理解できるようになっているのも事実であり、自分の世界の中に引きこもっているだけではどこにも行けない、甘美な死のイメージに取り憑かれているだけでは幸福は導き出せないということも理解できている(つもりではある)

2021年における「エヴァの完結」は、そういった自身の心情の変化や生きる動機を改めて見つめ直す契機となった気はしている。図らずも「自身の抱えるタナトス願望」にも一区切りついたというか、いつまでもタナトスタナトス言ってないで、とりあえずドンブリ飯でも食って仕事行ってこい!と、自分自身にハッパをかけられる気分になったのは非常に喜ばしい限りではある。

とまあ、ここまで言っても純粋に映像作品として「彼岸の美しさ」を感じるのは正直今もってなお旧劇場版の方なのだけど、それはまた別腹というか何というか。


シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
公開: 2021年
制作: 日本
監督: 庵野秀明
出演: 緒方恵美 三石琴乃 林原めぐみ 宮村優子 他

コメント

タイトルとURLをコピーしました