バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

ドラマ
[盛大にネタバレしているため要注意]
この人生で望みを果たせたのか?
果たせたとも
君は何を望んだのだ?
“愛される者”と呼ばれ 愛されてると感じること

レイモンド・カーヴァー
And did you get what you wanted from this life, even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved, to feel myself beloved on the earth. 

過去の成功や栄光にしがみつくことなくそれらをバッサリと切り捨てて新しいステージに進むこと(進化すること)は、俳優にしろ映画人にしろミュージシャンにしろモノを創る人間であるならば誰しも考えることであるし、そうやってどんどん未踏の地を開拓していくことこそが”クリエイティブ”であると自分も信じていたりするのだけれど、しかしながら栄光を捨て去った新たな人生が順風満帆であるとは限らないわけで、自ら捨てた過去に縛られた挙げ句前にも後ろにも進めなくなって人生がフリーズしてしまう人間の方が圧倒的に多いという現実は冷静に見据えなければならないな、と思ったりする今日この頃。

20年前、ヒーロー物の映画「バードマン」で一世を風靡し数十億ドルもの興行収入を稼ぎ出すビッグスターの地位を築き上げたものの、その後「ヒーロー俳優」というイメージからの脱却を図った末ヒット作からは遠ざかり、現在は落ち目のハリウッド俳優としてパッとしない人生を歩んでいる今作の主人公リーガン・トムソンもまた典型的な「転身に失敗した人」であり、文芸路線への移行を企てるも20年を経てなおバードマンのイメージは払拭できず、全てを賭け企画したブロードウェイの舞台においても出演俳優の事故により急遽代役として参加したベテラン俳優に演技・脚本のレベルを酷評され自信がガリガリと削られ、ドラッグ依存の治療施設を出たばかりの実娘との関係はギクシャク、おまけに自分が見切りをつけた「ヒーロー物」は、今やあらゆる俳優・女優がこぞって出演したがるハリウッドの稼ぎ頭コンテンツとなっている、とまあ、踏んだり蹴ったりな彼の現状は気の毒を通り越して身につまされるというか何と言うか、「良かれと思って行動した結果が全て裏目に出る人生」という点で他人事とは思えないシンパシーを感じてしまったりもして(もちろん自分は過去の栄光なんか無いんですけど)「人生って思った方向にはなかなか進まないもんですよねミギャー!」みたいな気分になってしまってどうにもこうにも。
そのリーガンを演じているのが、かつてティム・バートン版「バットマン」で主人公ブルース・ウェインを演じた(そしてその後あまりヒット作に恵まれたとは言えない俳優人生を歩んで来た)”マイケル・キートン”であるという点がまた絶妙のキャスティング。

やがて精神的に追いつめられたリーガンの現実世界は妄想とリアルが混濁していき、自己の存在意義を見失いかける度に彼の分身である「バードマン」が現れて「なんでこんなハメになった?」「ヒーローにカムバックしろよ?お前の居場所はあそこだろう?」等々煽ってくる状況に至るわけですが、実のところこのバードマンの囁きは「人生で望みを果たせていない」というという現実を受け入れられないリーガン自身のプライドやセルフイメージを守るべく本人が産み出している妄想(というか過去の栄光への無意識的な回帰願望)なわけで、結局の所「バードマン」に最も依存しているのはリーガンその人であるという痛々しい現実が浮き彫りになっていきます。切り離したい、けれど切り離すと自分には何も無くなってしまうという恐怖感が先立ってどうしても切り捨てることができない。リーガンをリーガンとして成立させている(周囲から承認されている)要素はあくまで「バードマンの主演俳優」というステータスであって演劇畑の才覚などではない、という自覚は本人の中にもありそれが圧倒的な自信の無さに繋がって「バードマン」の囁き、および「超能力」という幻聴・幻視を引き起こしてしまうという無限ループ。

映画冒頭のカーヴァーの詩は映画全編を通して何度も登場する今作のテーマそのものであり、ラストシーンにおいて主人公リーガンが到達する「結論」でもあるのですが、ひどくシンプルながら、実際エゴにまみれて生きていると、なかなかそこに到達できないのも確かなんですよね。
自分の人生を振り返りそこに何らかの「意味」を見出したいと躍起になるのは大体において男性な気がするのはやはり「子を産めない」という生理的な部分と関係しているのかな、と思ったりもするのですが、それはさておき「自分には生まれて来ただけの意味が何かあるはず」「本当の自分はこんなもんじゃない」というプライド・エゴを最優先にするあまり、本当に大切なものを手放す羽目になってしまうことは(自分も含めて)往々にしてあると思うんですが、リーガンの場合「俳優であり演出家としても才覚を持った自分」を大成させること(=エゴの充足)を人生における本質的な望みであると履き違えていたことが不幸の始まりだったというか、エゴに固執するあまり「家族の絆」や「愛」を蔑ろにし続けた結果が現在の苦境を招いてしまったわけで、どのつまり「エゴ」なんかより大事なものがあるという事実を見落としていると後々酷い目に逢うぜ、ということですかね。そういやクリストファー・ノーラン監督の「インターステラー」でも主人公が己の自尊心やエゴを優先した結果、後になって死ぬほど後悔してましたっけ。

リーガンの妄想と願望が混ぜこぜになった曖昧な「現実」はいつしか彼が舞台で演出しているカーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」とシンクロしていき、ついにラスト間際、モーテルのシーンにおいてフィクションとリアルの転換が起こる(「無知がもたらす予期せぬ奇跡」)わけですが、ここで特筆すべきは、演劇の登場人物エド(妻との「愛の形」の齟齬により拳銃自殺)を演ずることで自分の本質的な『望み』に気が付いていくリーガン、を演じているのが誰あろう「マイケル・キートン」という一点であり、この映画においてキートンがその演技によって完全に「バットマンの影」を払拭し切っているという事実によって「虚構内フィクション」が「虚構内リアル」に浸食され、さらに我々視聴者と同じ「リアル」にまで波及してくるという衝撃的な重層性を産み出しています。すす、凄いよこの演出!このためのキートン起用であったか。当初は本当に意地悪でキャスティングしたんだと思ってたもんなー。

ちなみに議論の的となっているラストシーンの解釈ですが、個人的には「未来世紀ブラジル」的な「非常にパーソナルなハッピーエンド」だったんじゃないかな、と思っています。今作は舞台をイメージさせるため全て(擬似的な)ワンショット長回し撮影になっているんですが、ラストシーン直前に映画内で唯一明確にカットが切り替わる箇所があって、あそこが「映画内リアル」と「リーガンの内的世界」との境界だったのかなー、と。対外的にはどこまでも救いが無い感じですが、家族との愛を再確認し、演劇人としての名声を手に入れ、バードマンとも決別できた「リーガン自身のストーリー」としてはハッピーエンドと言い切ってしまっても良いのではないかな。

まあ、言ってしまえば映画自体がリーガンの妄想だったとか全部走馬灯だったとか逆に全部真実でリーガンは超能力者だったとか、もう色々解釈できてしまうわけなんですが、切りがないのでとりあえずこんなとこで。

あと演劇界と映画界のヒエラルキーとか演劇人の「文化的特権意識」の高さとか、あまりにもエンタメ重視に傾いているハリウッドへの皮肉とか、ドラムのみを用いた音楽の衝撃的なカッコ良さとか、とかく情報量が多い作品なんで見る人によって「語りたい部分」が異なるかも知れませんね。

とりあえずエマ・ストーンの可愛さは異常(結局これが言いたかった)

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) / Birdman or The Unexpected
Virtue of Ignorance
公開:2014年
制作:アメリカ
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演: マイケル・キートン / エドワード・ノートン / エマ・ストーン / ナオミ・ワッツ 他
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