デビルマン

SF

故・那須博之監督による「日本映画史上最低最悪」の誉れも高き作品。公開直後よりあちこちで「酷い」「トラウマ」などといった噂が飛び交っていたため、ついうっかり見てしまったという方も多いかと思われるが、このたび腰を据えて再度見直してみた結果、どうもこれはそういった批判的な言説を超越した「大いなる意図」に従って製作された、途方もない作品なのではないかという思いがわき上がってきた為、以下、気になる点を検証してみることとする。

まず批判的言説において真っ先に槍玉に挙げられる「学芸会レベルの演技が2時間近くも続く」点であるが、これは通常の劇映画の常識に照らしても不自然極まりない事態であり、何らかの意図があると考える方が理に適っていると言えるだろう。自分は映画を見る際に俳優の演技に関してはさほど五月蝿い方では無いのだが、初見時、延々と続く「セリフ棒読み」の嵐にはさすがに全身が凍り付いた事を記憶している。常識的な映画製作の現場であれば、このような事態に至る以前に何らかの対策を嵩じるのが当然だが、この現場でそれが行われていない事を鑑みるに
①「何か意図がある」
②「制作者の意欲が著しく低下している」
③「制作者の精神に深刻な障害がある」
の3つの理由が考えられる。②もしくは③の可能性も否定は出来ないが、下に記するCG・演出の不自然な点を考慮し、ここは①であると仮定する。

ここから透けて見えるのは「ドラマ/劇の解体」という意図ではないだろうか。確信犯的に演技を崩壊させ異化効果を生じさせることにより、我々が普段当然のごとく日常」の延長線にあると信じる「劇空間」が単なる虚構に過ぎず、制作者の意図によりいくらでも変質してしまう曖昧なものであると言う事実を突きつけるとともに、ひいては現実そのものの確実性に対する信念すらも揺らがせんとする、極めて暴力的な「破壊活動」。脇役の子役の演技が一番秀逸だったという事実は、逆説的に考えると「子供」であるが故に充分コントロールができなかった(意図的に演技を崩すことが不可能だった)と解釈できるに違いない。

次にこの映画の肝ともいえるCGについて。これは実際に本編を見てみると理解できるのだが本当に04年製作の映画なのかと疑わしくなるほどのチープさであり、21世紀におけるCG全盛の映画製作環境の中で作られたとは到底思えない出来映えとなっている。これは恐らく昨今の全面的にCGに依存しきっている映像制作者達に対する間接的な批判であると言って良いだろう。製作が東映であるにもかかわらず今まで培ってきた特撮の技術を回避してわざわざ迫力に欠けたCGのみでゴリ押しする理由は他に考えられない。 映画は誕生以来、ほぼフィルム(ゼラチン質のベース)に焼き付けられた粒子という形で存在してきた。即ち「映画=物質」である。反してCGは、とどのつまり0と1の集合で計算された情報、即ち「形而上的な存在」に他ならない。今作における安易かつ不明瞭なCG乱用の裏側からは「人間の表現から偽りの装いを引き剥がしマテリアルの復権を目指す」という制作者側の思想が読み取れるのではないだろうか。

そして極めつけは演出である。今作の演出全体を通して見ると、現在までに存在したあらゆる映画作品の中でも指折りの酷さと思われるグダグダ加減であり、「マトモに原作を読み込んだ」とは到底思えない程の無軌道な構成に辟易してくるが、無論そこにも明確な意図が介在することが予想できる。そしてそれは、今作が何故オリジナル作品ではなく「永井豪」という著名な人物の「デビルマン」という普遍的な名作の映像化という形で製作されるに至ったのか、という命題に直結しているのである。

判りやすい例として、ラストシーンの会話を抜粋してみよう。血で血を洗う壮絶な最終戦争の後、死に瀕した主人公・明と、彼の映し絵たるサタン/了が穏やかな表情で空を見上げつつ、世界が無へと帰してゆく原作のラストは本当に素晴らしいものであったが、そのような所謂「名場面」と呼ばれるパートを、今作ではどのように描いただろうか。

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巨大な月、赤い海、海辺に横たわる二人。(背景はチープなCG)
半身が失われ、死にゆく明。それを見た了

「なんだよ、お前、死ぬなよ!」(棒読み)
「デビルマンだろ、生き残れよ!」(棒読み)

致命傷を負わせたのは他ならぬ了であるという点を差し引いても、あまりに間が抜けており、緊張感が無さすぎる。

そして息を引き取る明。
それを悲しんでいたかと思うと、タイミングを無視して唐突に喀血する了。

「俺も…すぐに逝く、待ってろよ、明」(棒読み)

それを聞き、明の頬がかすかに緩む(つい先ほど死んだはず)
それを見て大喜びする了。

「笑った!明が、明が笑った!あはははは-」(棒読み)

(完)

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台無し、である。そう。原作の素晴らしさもファンの思い入れも何もかも全て、ここでは無惨に踏みつぶされてしまう。そしてこの「台無し感」こそが制作者側の最も大きな目論見に他ならない。

原作やキャラクターへの思い入れ、そして「永井豪」「デビルマン」という言葉の持つ「意味」に対するパブリックイメージをことごとく粉砕し、映像というメディア上でラウシェンバーグよろしくフラットに引き延ばし全てを無意味化すること。観客は今作に「永井豪のデビルマン」を期待するが、そこには既にシニフィエを剥奪されペラペラに引き伸ばされたコラージュ素材としての「ながいごう/でびるまん」しか存在してはいない。

とどのつまり制作者は「人気漫画の映画化」という枷を逆手に取り、全ての期待を裏切って確信犯的に「完全に無為な2時間」を観客に強要する事により、「映画」というメディアの持つ虚構性・空々しさを浮き彫りにせんと画策した、と言えるだろう。

結論として、これは単なる「B級・バカ映画」を偽装した「実験」(実験”映画”ではない)であり、「最低最悪」であることを意図的に狙うことによって映画、ひいては商業主義の産業全体に対し精神的揺さぶりをかけんとする「メディア・テロ」であったと、ここに確信する。

今作を「最低バカ映画」と断じ、安易に受容/放置し続けていた間にも、我々は知らず知らず制作者の思惑どおりに彼らの思想を受容し、知らず知らず感化されていた可能性も否めない。今後、第2第3の「DEVILMAN」が誕生してくる可能性が否定できない以上、我々は「一見バカ映画以外の何物でもない作品」にこそ注意を向け、警戒を強めて行かねばならないだろう。


DEVILMAN
公開:2004年
制作:日本
監督:那須博之
出演: 伊崎央登
伊崎右典
酒井彩名
宇崎竜童 他


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