新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

SF
久々に見返してみてもやはり劇場版「まごころを、君に」の暴走っぷりは異常だった。
「Air」までは、確かに作画も演出も従来のアニメを遥かに超えるクォリティであったとはいえ、割ときちんと「お話・エンタメ」としての体裁を保っていてそこを逸脱し現実を侵食する程の破壊力は存在していなかったのに対し、この最終話はどう考えてもオカシイ。

物語を語るというエンタメの本質から、作家の内面吐露へと作品の軸が移行していくにつれて次第に剥ぎ取られていくキャラ造形や設定。アニメーションという「お約束」すら放棄して、洪水のように作家の自意識を描き始める映像。

少なくともこの作品はエンターテイメントではない。それどころか「映画」と呼べるシロモノなのかどうかも非常に怪しい。いわゆる商業映画としても実験映画としても余りに歪で均整がとれていない、いわば「蛭子」の様な映像。これが「商業映画」として劇場で公開され、なおかつ大量の観客を動員してしまったという事実が何より不可思議。というか、正直「詐欺」以外の何物でもないような気もする。

まあ、そこまで暴走して一体何を言っていたのかというとつまるところ監督・庵野秀明が「これこれこういう理由で生きるのが辛いです」という話を1時間かけてねっこりと語るという、これだけ取り出して考えると非常に暑苦しい・始末の悪い・うざったい作品だったと言ってしまえるわけなのだが。実際の所大半の人の感想は「いい歳してグチグチグチグチあーもう!キモいんじゃお前!」みたいな感じだったのではなかろうか。

正直この当時の庵野秀明はキモチワルイ。まず言ってることがキモチワルイ。態度がキモチワルイ。すぐセックスを引き合いに出してくるあたりもキモチワルイ。当時の批評などでよく言われていた「いい歳した大人が作品をダシに感情ダダ漏れにして、それで世間様が納得するとでも思ってるのかゴルア!」だとか「商業映画という名目を冠したオナニーショウ」といった批判も決して的外れなものでは無かっただろう。

さらに発言内容に限って言えば、言葉を「読ませる文章」に高めるだけのレトリックも余り用いておらず、非常に判り易いというか、悪い言い方をすれば感情的・直接的で、一歩間違うと「精神科に通院中のリスカ少女の妄言」と大差なかったりするといった具合で、実験映画というかもう「イメージフォーラムの卒制かよ!」みたいなノリ。そりゃ一般のアニメファンは確実にドン引きするってば。

こんな作品、健全で安全で憂いのない現実生活を営んでいる人間にはただただウザいだけですよね。「死にたい死にたいって、勝手に死ねよ!」みたいな感じですよね。

ただ、当時の自分(今もだけど)には「精神科に通院中のリスカ少女」の抱えている絶望に対して「バカ言ってんじゃねえよ!」と斬り捨ててしまう事は出来なかったのも事実。そこまで達観した「オトナ」にはなれない。いくら理屈で批判出来ても、この映画において庵野秀明が丸裸状態になって投げつけてくる「主張」に対して、自分はあまりにシンパシーを感じ過ぎる。装飾されない感情的なコトバの1つ1つが、そして庵野自身の絶望の1つ1つが精神にグサグサ刺さる。そりゃ、こんな思考回路に落ち込んだら生きてるのイヤになっちゃうよな。

とどのつまり庵野秀明がこの映画で掲げた主張は、人間という存在はそもそも各々が「閉じて」いるものであり、共通認識なんてものはお互いの「思い込み」と「理想」を混ぜ合わせて捏造された「夢」みたいなものであって互いのコミュニケーションを成立させるためのプロトコルなど実のところ始めから存在してはいない、という「絶望」に他ならなかったと思う。言語に対する不信感。人と人との間に真のコミュニケーションなど成立しないという事実に対する諦めと、それでも他者を求めてしまう事への恐怖。

人間とは生まれてから死ぬまでどこまでも孤独であり、その寂しさを真の意味において癒すことなど絶対に不可能なのだと悟ってしまった(共通の妄想から覚めてしまった)ことこそがこの作家の不幸だったのではないだろうか。

と、なんだかんだ共感しつつもこの作品を撮った時の庵野の年齢(当時38)を考慮してその「ヌルさ」とか「甘さ」に対してイライラしてみたり、その年齢に徐々に近づいてなお全然成長していない自分に対してイライラしてみたり。

「っあー、もうっ!アンタ見てるとイライラすんのよっ!」(アスカ)


でも、この年齢になって初めてあの頃び抱えていたザワザワした感じの正体が「形」になって見え始めた気がするのも確かで、だからこそ余計「どん底に鬱」な感覚に陥ってしまうのかもしれないと思ったり。どこまでも膨れあがる不安。ひたすら目に見えないものに対する渇望。結局それらは、所謂「大人と言われる歳」になったからといって消えてしまうわけではないのだろう。結局若い頃に確立した「視点」というのは10年経とうが20年経とうが、あまり変わりはしないのだと再認識。

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ただ、この作品が「単なる愚痴」や「救いを求めるコトバ」に終始していたならば、たぶん自分はここまで評価はしていなかったのではないかと思うのも確かで、おそらく理屈とは全く別の部分で精神を揺さぶられてしまったが故に自分はここまでこの作品に取り憑かれてしまっているのだと思う。それが一体どういう現象だったのかを説明するのは恐らく物凄く難しいことだと思うのだけど、敢えて一番近い言葉を選ぶとしたら、たぶん「美意識を揺さぶられた」だとかそういうコトバになるんじゃないだろうか。

コトバに変換されたり、映像に変換されたり、絵画に変換されたりする以前の形容しがたい「力」。曖昧でありつつ絶えず内面からグツグツと湧き上がり続ける衝動のような抗えない奔流。論理や表層的なヴィジュアルを飛び越えて見る側の精神をダイレクトに震盪させる常軌を逸した「力」。

それを押井守は「パトス」と呼んだし、イメフォの先生に言わせると「詩が存在する」という事になるんだろうけど、この「まごころを、君に」は、確実にそういう「根源的な熱量」みたいなものによって自分の美意識を揺さぶった気がする。揺さぶられたというか熱量に反応してこっちが勝手に振動してしまったという感じ。これって誰もが共感したり感銘を受けたりする類のものではないのだろうけどそれが「共振」してしまった時の破壊力(影響力?)にはかなり物凄いものがある気がする。

ではこの作品において自分の精神をガクガクに振動させた根源的な「熱」とは一体何だったのか。具体的に名状してしまうとちょっとニュアンスが異なってしまう気もするのだけれど、それは、少なくとも自分にとっては、庵野秀明自身の抱える悲痛なまでの「ペシミズム」であったと思う。

その発露が最も顕著なのが、映画中盤で全世界が無へと還る一連のシーン(「Komm,susser Tod」が流れる箇所)だろう。内容も判っているし、次のシーンにどんな絵が来るのかも把握しているにもかかわらず、この部分に差し掛かると、相変わらずボロボロになってしまう。感動?違う気がする。物凄く哀しいシーンだからジーンと来ているわけでもない。

たぶんこのシーンが自分にとってここまで意味のあるものとなっているのは、自分における「最も理想的な終局の形」がここで描き切られてしまっているからに他ならない。全てが無に帰る際の苦痛と快楽・哀しみと歓喜が混ぜこぜになった異様なコントラスト。嬉しいも楽しい愛しいも哀しいも辛い寂しいも全てが絶対的な「終焉」に飲み込まれていくひたすらに圧倒的な光景。それと対照的に、鳥肌が立つ程どこまでも美しく描かれるヴィジュアルと音楽。

実のところアニメ・実写 / 洋画・邦画問わず「世界の終局」をここまで美しく描いた表現などそれまで見たことが皆無だったし、この作品以降も、一度もお目にかかっていない気がする。なんせこの部分を繰り返し見たいが為に、当時新宿の劇場に10回以上通っちゃったし(まあ病気ですから)

恐らくこういった、全てが崩壊し「無」へと収束していくシーンをあそこまで美しく描けたのは、あのシーンこそが当時の庵野自身の「願望」であり、この作品を取る上で最も描きたいと願っていた「理想」だったからではないだろうか。理想の「世界の終わり」。理想の「死の形」。そしてそれは同時に自分の中のタナトス衝動の具現化でもあったのだと思う。

ひたすらスコーンと突き抜けた絶望の果ての清々しい「死」。
あの頃は、その批評性の高さ故にエヴァにハマったと思っていたのだけど、大人になってから考えると、どうもそうではなくて、庵野秀明という人間の抱える異様に深いペシミズムとそこから生じる独特のリリシズムに共感していたわけだ。絶望をこうまで美しく描ける人間ってどないやねん!という驚愕と、どこまでも深い「憂鬱」に対する徹底的なシンパシー。

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それでもこの作品が当時の若者達にとっての「自殺誘発映画」となり得なかったのは、ひとえに庵野秀明の中にタナトス的な衝動を受け入れつつ「それでも死ねない自分」を自覚する意識があったからに他ならないだろう。「死」を選べない以上、苦痛にまみれてでも「現実」を生きて行かなければならない。そして現実を生きていく以上、人は傷つけられる恐怖に怯えつつも「他者」を求め、「理解」されることを望まずにはいられない。

それは絶望の泥沼の中で有りもしない希望のカケラを探して抗泥する行為に似ている。希望とは目に見える形で明確に提示されるものではなく、人は曖昧な期待感を胸に抱きつつ、他人の恐怖に怯えながら絶望の中を生きていくしかない。それでも「ひょっとしたら・存在する・かもしれない」希望を追い続けることは、それ自体人が生きていく充分な動機になりうるのではないかと、この作品は問いかける。

人間同士が、真の意味で相互に解り合える可能性などゼロに等しい。ただ、ほんの1%でも希望があるならば生きていくだけの価値は生じるのではないだろうか、というのがおそらく「エヴァ」を制作することによって引き出された庵野秀明の結論だったのだと思う。

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 僕の心の中にいる君たちは、何?

 希望なのよ。 人は、互いに解り合えるかもしれない、という事の。

 だけど、それは見せかけなんだ。 自分勝手な思い込みなんだ。 “祈り”みたいなものなんだ。

 でも、僕はもう一度会いたいと思った。 その時の気持ちは、本当だと思うから


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泥沼の様な日常との齟齬の中、気が狂う程の孤独に苛まれて絶望したとしても、いつの日か他者を理解し・誰かから理解されることを願い・祈る気持ちを持ち続けることが出来ればちょっとは前向きに生きられるのではないか、という庵野秀明なりの、非常にネガティブながら、それ故に説得力のある「人生観」というか「諦念にも似た前向きな姿勢」。この価値観に到達出来なかったとしたら、もしかして庵野秀明はエヴァ完成前に自殺していたかもしれないなあ、とか思ってみたり。そう考えると、これはある意味で生きる上での支柱というか、「信仰」などに近い領域の話にまでなっているのかもしれない。ともあれ、こうも「死」や「終焉」といった不健全なモチーフを扱いつつ、なお「エヴァンゲリオン」という作品が「前向き」な作品として存在し得ているのは、ひとえにこの価値観のおかげと言えるだろう。

この価値観は当時の自分にとっても一つの「突破口」として機能し、たぶん現在に至るまでの自分の精神活動における非常に重要な思想基盤となっているように思う。

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そして問題のラストシーン(サブタイトル「I NEED YOU」)において、庵野秀明はまるでダメ押しするかの様にその結論をネガティブな方向で展開させ、全ての観客を唖然とさせる。

赤い海。満天の星空。月に架かる血の河。波の音がさざめく砂浜にひっそりと横たわるシンジとアスカ。映画が全て解体していき、全てがフラットになった「ふりだし」の場所に取り残された「アダムとイヴ」。「物語」という神の国を追放された2人は、お互いの心を厚い壁に阻まれて相互に理解し合うことが出来ない。このシーンおける彼らは映画のキャラクターというよりはもはや「自己と他者」という極限の単位に還元された記号であるといえ、この場合アダムは「自己」であり、目覚めないイヴは「希求される他者」の象徴である。

このラストシーンにおいて、会場で見ていた観客の大半は「ああ、ここでよう~やくシンジくんも救われるのねっ。良かった!現実世界でもアスカと上手く頑張って!」と「色々あったけど終わり良ければすべて良し」的な大団円、ハッピーエンドを期待していた事だろう。ネガティブ街道一直線だったシンジくんもようやく前向きになったことだしいくら庵野でも最後くらいはちゃんと「お話」として着地させるに違いない。だってこれはエンタメなんだから、と。

しかし、そういった観客の思惑はアッサリと否定される。

エンタメ的なラブ展開への期待感を微塵に砕くかのように「他者」を前にした「自己」は、今後自分を確実に傷つけるであろう存在に対し恐怖し、傷つけられる前に相手を消してしまおうと「他者」の首を締め付ける。「他者」さえ存在しなければ誰からも傷つけられることのない永遠の天国だ。

しかしながら人は「生きて」いる以上、永遠の孤独には耐えられない。「自己」とはそれを投影する「他者」という鏡があって初めて存在しうるものであり、その鏡を消してしまうということは、即ち自分の存在すらも消してしまう行為に他ならない。妄想のみで閉ざされた場所には「自分」だって居ないわけで、いかに傷つけ合い苦痛にまみれようとも「自己と他者」を分かつことなど誰にも出来はしない。

極限的なジレンマの中で悲嘆に暮れ、崩れ落ちる「自己」。

それに対して「他者」が投げかける言葉、即ち「愛しています」でも「許してあげる」でも「貴方を受け入れる」でもなく

   気  持  ち  悪  い  。

という身も蓋もない言葉によって、映画は唐突に幕となる。

甘い妄想に捕らわれている観客を最後の最後に「現実」に放り出すかのごとき終幕。
このような言葉をもって映画を締めくくったことは、庵野秀明がこの作品で何を成そうとしていたのかを、最も顕著に描き出しているだろう。即ち、どこまでも妄想を排除していくドライな視点を貫き、徹底してリアリスティックな位置から、人と人との「関係性の本質」を冷徹に描き出そうという意図。言い換えるならばそれは日常に埋没しているタナトス性の復権を謀った行為であったと言える。タナトス性とは単純に「死に向かう」衝動ではない。それは日常に埋没し喜びや快楽を享受する「エロス」的在り方と垂直に交わり、そこに対し「リアル」の風穴を開ける破壊力を持っている。
世界に満ちた「妄想」のベールを剥がし、ありのままの痛々しい現実の姿を世間に晒すこと。それこそがこの「エヴァンゲリオン」という作品の本質であったと言える。

当時の庵野にとって所謂「映画」とは「尺の決まった御都合主義の見せ物」に過ぎず、「ハッピーエンド」などどこまでも妄想に過ぎない。「彼の / 彼女の気持ちが判る」などというのは「物語」の中だけのお話であり「現実」において理解し合えない2人の人間はお互いの存在を激しく正体不明な「気持ちの悪いもの」として認識するしかない。
無論いつか解り合えるという「希望」の可能性は存在しているものの、それは今のところ映画が終了し、さらに時間が経過した遥かな未来にうっすらと見える(かもしれない)という程度であり、目に見える形で提示されることはない。

映画表現において常に全てが描き切られると思ったら大間違い、フィクションが全て「閉じて」いるものだと思うなかれと庵野は言う。確かに一生妄想に浸って生きられるのならばその方が幸福な人生を過ごせるのかもしれない。しかし、閉じた妄想の内に生き続けている以上、そこに本質はない。妄想はどこまでいっても妄想。「夢」はどこまでも「夢」でしかない。それならばたとえ傷ついてもリアルに物事を感じていた方が「生きる実感」は持てるのではないか。

生々しい「苦痛」をもって快楽主義が席巻する一般認識にタナトスの楔を打ち込んだこと。制作から10年を経てなおこの作品を評価する価値があるとするならば、おそらくこの一点に集約されるのではないだろうか。

確かにこの「まごころを、君に」という作品は「映画」と呼ぶにはあまりに不格好でバランスの悪い歪な作品だったと言える。しかし、この作品が果たした「行為」そのもの、そして全体から発散されている強烈な感情は未だに自分の精神を打つ。それはどのようなエンターテイメントでも到達出来ない、「畸形」の作品であるが故の輝きなのだと思う。

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  「僕の夢はどこ?」

  「それは、現実の続き」

  「じゃあ、僕の現実はどこ?」

  「それは、夢の終わりよ」


新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に
公開: 1997年
制作: 日本
監督: 庵野秀明
出演: 緒方恵美 三石琴乃 林原めぐみ 宮村優子 他

 
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コメント

  1. […] 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に The End of Evangelion 公開: 1997年 制作: 日本 監督: 庵野秀明 出演: 緒方恵美 三石琴乃 林原めぐみ 宮村優子 他 …dandelion.flatfield.info […]

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